「母親が作ったお弁当が食べられない」
私には、中高時代、母親の作った弁当を食べずに捨ててしまう時期があった。食欲はある、嫌いなおかずは入っていない、もちろん食べ物を粗末にしてはいけないことなんてわかってる。でも「見えない働き」を感じるし、それが気持ち悪くて全部捨てていた。もしくはなるべく手の込んでいない白米やミニトマトは食べ、アスパラベーコンとか卵焼きとかの、お弁当のためにわざわざ作ってくれたであろうおかずは捨てた。
母親が作るお弁当といえば、海外のそれに比べて、アピアレンスがレべチだ。欧米圏はピーナッツペースト塗ったサンドウィッチと丸ごとリンゴを昼飯に学校に持っていくのは、今や有名な話だし現実と相違ない。
自分はこの(いい意味で)テキトーランチなら食べられたと思う。この、日本の、母親の愛という名の、ただの昼ごはんにしては多すぎる労力が詰まったお弁当は、自分にとってトゥーマッチでなんだか押しつぶされそうになる。
こんな生意気な奴がいるのか、と思うかもしれない。
でも、この、「見えない働き」を追求しないことには私は一生前に進めないと思ったので、このトラウマ的感情に向き合おうと思う。
日本の弁当にあって、海外の弁当にないものは何なのか。そこで行き着いたのはマルクスのイデオロギー論だった。
唯物論 byマルクス
マルクスは人々(市民)が新たな価値観を受け入れるプロセスにおいて、2パターンに分かれるとしている。
1. SA: State Apperatus
国家装置(法律や警察など)
→明確かつ抑圧的な権力を持ち、それ自体が本来の組織の持つ役割
2. ISA: Ideological State Apperatus
イデオロギー的国家装置(メディアによる情報提供、医療・福祉機関によるサービス提供、教育機関による人材育成など)
→組織の主たる目的が別にある
コロナ禍での外出禁止を国民に浸透させる働きをイメージすれば、前者が政府からの発信(日本の場合は協力義務とされてた)、後者がテレビのニュース、専門家の提言、小中学校での教員からの指示など。
2のISAは、多義的な機能を持つために、無意識のうちに受け入れられやすい。そして誰もがこういったいくつかのコミュニティに属しているので、自分が何者であるかを特定するための条件や機械となる。
つまり、ISAは今日の資本主義社会において、人々の社会規範や価値観を強化する上で重要な役割を果たしている。
日本のお弁当はISA?
日本の弁当は、その機能によってイデオロギー的な国家装置(ISA)として機能する。
ここでの弁当は、母親の手作り弁当を想定してほしい。保育園・幼稚園時代は誰もが母親の弁当を携えて通園してたのではないだろうか。(筆者は給食のない学校に通っていたので、高校卒業まで毎日手作り弁当でした。母ありがとう。)
母親から子供へのプレゼントである弁当は、母親が毎日早起きして弁当を作り、一口サイズの食事を色とりどりに合理的に詰め、子供がそれを受け取り、保育園で食べ、先生から残さないように指導される。
そのお弁当は、ただの昼飯ではない。
それは、母と子の絆を維持する。
それは、ジェンダー的役割としての女性の家庭性を強化する。
それは、園での食事マナーの指導を通して食文化規範への社会化を促す。
それは、伝統的イデオロギーを強化する。
よって、母から子への弁当は、日本における社会的基盤を形成する。
イデオロギー的国家装置としての弁当箱という、新しい見方は、カール・マルクスのイデオロギー論の中心である唯物論と密接な関係がある。
マルクスは、あらゆる社会変化や政治革命の究極の原因は、人間の潜在意識や不変の真理にあるのではなく、生物発生や交換の様式の変化にあると結論づけた。
この考え方は、人間の思考をコントロールしようとすることで社会を変容させるSAとは対照的に、機能の変化によって思考を形成するイデオロギー的な国家装置にも通じる。
つまり、弁当箱がイデオロギー的国家装置であるという主張は、物理的環境がイデオロギーとして機能するというマルクスの唯物論を反映している。
まとめ
なんだか哲学な話になってしまったが、母親が子供のために手作り弁当を作り、持たせるという行為、そして子供(私)が学校でそれを食べる、という行為には、見えないイデオロギーが詰まっている。
自分が弁当を食べることで、母との結びつきが契約のように強くなって一生逃れることのできない感覚があった。仕事を辞めて夫をも子をも献身的に支える、「社会的な母親の理想像」の形成に加担しているのが嫌だった。そして、「自分もいつかは作る側として贈与を連鎖させなければならないかもしれない」という、社会規範からの逃れられなさがしんどかった。
のかもしれない。