エディプス・コンプレックス克服した2024の盆
つらつら書いてみよう、見出しも何もなく、なぜなら坂口恭平さんの「生き延びるための事務」を読んだから。9月から大きい企業の社員になるけど、私は自分の作ったものでお金を稼いで生きていきたい。いつか、いや、30歳までにエッセイを出します!とここに宣言します。この文章は初めの数歩目です。
今年の夏はエディプス・コンプレックスからの大脱出を遂げた。
少し身の上話をすると、私は生まれてから両親は離婚もしていない、妹がいる、世間一般で言う「訳アリ家庭」ではない。完全体とも思わんが。なぜなら、私が小3のときに見てはいけないものを発見し、ずっと根に持っているから。父親の、キャバクラのお姉さんとの下心丸出しメッセージ。それと顔を真っ赤にしながらセクシーなドレスを着たお姉さま方(キャバの方)と体を密着させている写真。それと、父の地元に住んでいる不倫相手とのメッセージ。(当然、私は不倫相手を一番問題視していて、彼女のフルネームと職場、LINEのIDまで押さえている。)そしてこの事実を知っているのは家族の中では私だけ(思春期の時、イラついて友達5人くらいに話したことはあるけど)。
2年前、コロナで父親の仕事(自営業)が激減し、生活のために、ローンで買っていた世田谷区のマンションの1部屋を億で売り飛ばし、築30年以上の月8万の賃貸に引っ越した。それと同時に父親は地方で一人暮らしを始めた。なので、実質母、私、妹の女3人暮らし。物心ついたときから、父は毎晩24時過ぎに帰ってくるのであまり話さない。20時に帰ってきたと思ったら部下に対する愚痴か、母親に説教か、私に説教。内容はどうでもいい、多分しょうもないこと。ただ、嫌な時間だった。だからマンションからアパートになっても、父親が家にいないことが何よりも心の平安をもたらした。
さて、だからといってエディプス・コンプレックスと何の関係があろうか。
エディプス・コンプレックスとは、精神科医のフロイトによれば、精神分析の中核となるコンプレックスである。その定義を簡単に言えば、「患者が自分の両親(特に父親)に対して抱く複雑な観念・感情の複合体」である。
私はこれまで、エディプス・コンプレックスとは、「男児(男子・男性)が父親に自分の母親を奪われるのではないかと危惧するときにうまれる嫉妬心」だと思っていたが、どうやらその定義はもっと広いらしい。女性の私でもエディプス・コンプレックスを発症している可能性があるのか。
「自分の両親(特に父親)に対して抱く複雑な観念・感情の複合体」…。
前述したように男性ホルモン旺盛で、贔屓目にも「妻に一途」とは言えない父親のことを、私は「自分で決めたこと(結婚相手と添い遂げること、家族を守ること)さえも守れない愚かな男」だと思っていた。
でも、父が私の進路を心配して説教垂れるとき、「専門卒で苦労した自分のようにはなってほしくない」と瞳を潤ませていた。私は、「彼は彼の学歴、キャリアのコンプレックスから抜け出せていない可哀そうな人」と思っていた。私が大学に進むと、知識や経験が彼が持っているものとはどんどんかけ離れていき、私はそのたびに、「可哀そう」だと思った。
一方で母親はなんにも考えない、「なるようになるさー」的な人なので、それを見るたび、「いろいろと考えてしまう自分は、父親に似たんだ」と思っていた。
大学で心理学を専攻していた私がいつも論文で取り上げるトピックは「男性性」。男性としての父親を取り巻く社会的な圧力や彼の心理を知りたかった。
軽蔑、同情、親近感。この複合的な感情は、れっきとしたエディプス・コンプレックスだった。
家族の中で本当の意味で父親のことを理解してあげられるのは、この私しかいない、と思っていた。
でも実際は違った。
2024年7月、お盆を前にして両親が帰省の計画を立てていたとき、母から聞いたこと。「俺、家族の中で〇〇(長女、私)と一番気が合わないんだよな、何考えてるか、何話したらいいか一番わかんない」と父が言っていたと。嫌いなはずなのに、突き放された感じがして悔しかった、むかついた。私は何冊も男性性の本も論文も読み、生きにくい思いをしているかもしてない自分の父親に少しでも寄り添おうとしてたのに。あっちは何のeffortもなしに切り捨てたんだって。
お盆期間に入り家族4人で車で帰省した。父親は久しぶりに会う母親に最近会ったことをぺらぺらと気持ちよさそうにしゃべっていた。
一挙手一投足を見られ、それが父親の気に障れば深夜であろうと4時間説教コースをくらうのが当たり前だった私は、父と自分を別の生き物だと認識できていなかった。意識はわかっていても、無意識下で、ずっと父の反応を自分のことのように見ていた。
でもそれは何もかも違うと、あの車の中でやっとわかった。父はもう私のことなんて見ていない、最初からみていない、子どもは父親の選んできた人生の中のおまけじゃんかよって。当然母の方がいいよねって。
それがわかったとき、死ぬほどすっきりした。ずっと心の奥で溜まっていた埃やら垢が全部綺麗になくなった。
エディプス・コンプレックスとは、「母子関係に父親が介入することによって子供が抱く、愛や憎悪などの観念の複合体」。
子供は、生まれて初めて出会う「他者」である母親に対して、「自分が要請することは何でも叶えてくれる」と考えるが、やがて「すべての要請が叶うわけではない、母親も欠如した存在だ」ということを自覚する。
そして、母親が従属している父親を自分の世界をつかさどる偉大なものとして認識する。
その誤った認識から解放されない限りは、子供はエディプス・コンプレックスの中に留まるんだと。
23歳の夏にしてやっとその支配から解放されたという話でした。
この出来事と同時に読んでいた、片岡一竹著「ゼロから始めるジャック・ラカン」から諸々引用しているので、エディプス・コンプレックスについて、ちゃんと知りたい方はぜひ読んでください!
母親が作ったお弁当が食べられないのはなぜか
「母親が作ったお弁当が食べられない」
私には、中高時代、母親の作った弁当を食べずに捨ててしまう時期があった。食欲はある、嫌いなおかずは入っていない、もちろん食べ物を粗末にしてはいけないことなんてわかってる。でも「見えない働き」を感じるし、それが気持ち悪くて全部捨てていた。もしくはなるべく手の込んでいない白米やミニトマトは食べ、アスパラベーコンとか卵焼きとかの、お弁当のためにわざわざ作ってくれたであろうおかずは捨てた。
母親が作るお弁当といえば、海外のそれに比べて、アピアレンスがレべチだ。欧米圏はピーナッツペースト塗ったサンドウィッチと丸ごとリンゴを昼飯に学校に持っていくのは、今や有名な話だし現実と相違ない。
自分はこの(いい意味で)テキトーランチなら食べられたと思う。この、日本の、母親の愛という名の、ただの昼ごはんにしては多すぎる労力が詰まったお弁当は、自分にとってトゥーマッチでなんだか押しつぶされそうになる。
こんな生意気な奴がいるのか、と思うかもしれない。
でも、この、「見えない働き」を追求しないことには私は一生前に進めないと思ったので、このトラウマ的感情に向き合おうと思う。
日本の弁当にあって、海外の弁当にないものは何なのか。そこで行き着いたのはマルクスのイデオロギー論だった。
唯物論 byマルクス
マルクスは人々(市民)が新たな価値観を受け入れるプロセスにおいて、2パターンに分かれるとしている。
1. SA: State Apperatus
国家装置(法律や警察など)
→明確かつ抑圧的な権力を持ち、それ自体が本来の組織の持つ役割
2. ISA: Ideological State Apperatus
イデオロギー的国家装置(メディアによる情報提供、医療・福祉機関によるサービス提供、教育機関による人材育成など)
→組織の主たる目的が別にある
コロナ禍での外出禁止を国民に浸透させる働きをイメージすれば、前者が政府からの発信(日本の場合は協力義務とされてた)、後者がテレビのニュース、専門家の提言、小中学校での教員からの指示など。
2のISAは、多義的な機能を持つために、無意識のうちに受け入れられやすい。そして誰もがこういったいくつかのコミュニティに属しているので、自分が何者であるかを特定するための条件や機械となる。
つまり、ISAは今日の資本主義社会において、人々の社会規範や価値観を強化する上で重要な役割を果たしている。
日本のお弁当はISA?
日本の弁当は、その機能によってイデオロギー的な国家装置(ISA)として機能する。
ここでの弁当は、母親の手作り弁当を想定してほしい。保育園・幼稚園時代は誰もが母親の弁当を携えて通園してたのではないだろうか。(筆者は給食のない学校に通っていたので、高校卒業まで毎日手作り弁当でした。母ありがとう。)
母親から子供へのプレゼントである弁当は、母親が毎日早起きして弁当を作り、一口サイズの食事を色とりどりに合理的に詰め、子供がそれを受け取り、保育園で食べ、先生から残さないように指導される。
そのお弁当は、ただの昼飯ではない。
それは、母と子の絆を維持する。
それは、ジェンダー的役割としての女性の家庭性を強化する。
それは、園での食事マナーの指導を通して食文化規範への社会化を促す。
それは、伝統的イデオロギーを強化する。
よって、母から子への弁当は、日本における社会的基盤を形成する。
イデオロギー的国家装置としての弁当箱という、新しい見方は、カール・マルクスのイデオロギー論の中心である唯物論と密接な関係がある。
マルクスは、あらゆる社会変化や政治革命の究極の原因は、人間の潜在意識や不変の真理にあるのではなく、生物発生や交換の様式の変化にあると結論づけた。
この考え方は、人間の思考をコントロールしようとすることで社会を変容させるSAとは対照的に、機能の変化によって思考を形成するイデオロギー的な国家装置にも通じる。
つまり、弁当箱がイデオロギー的国家装置であるという主張は、物理的環境がイデオロギーとして機能するというマルクスの唯物論を反映している。
まとめ
なんだか哲学な話になってしまったが、母親が子供のために手作り弁当を作り、持たせるという行為、そして子供(私)が学校でそれを食べる、という行為には、見えないイデオロギーが詰まっている。
自分が弁当を食べることで、母との結びつきが契約のように強くなって一生逃れることのできない感覚があった。仕事を辞めて夫をも子をも献身的に支える、「社会的な母親の理想像」の形成に加担しているのが嫌だった。そして、「自分もいつかは作る側として贈与を連鎖させなければならないかもしれない」という、社会規範からの逃れられなさがしんどかった。
のかもしれない。
なぜ靖国神社はずっと気まずいのかー日本の排他性を考えるー
政治と宗教の分離の問題?戦争によって被害に遭った隣国(慰安婦問題等)に対して配慮が欠けるとされるから?
どれも間違ってはないが、なんとなく自分の理解がフワッとしているのが気持ち悪かったので、この前靖国神社に行ってきて、いろいろと調べてみた。
行ったことのない人は、是非靖国神社に行ってみて欲しいし、中にある遊就館も必須で訪れてほしい。行ってからこれを読むのもありかも。
靖国神社とは何か
靖国神社は、東京都千代田区九段北にある神社。招魂社に起源を発し、明治維新以後の国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。日本兵を「英霊」として神格化し、合祀している靖国神社は、その目的や公務員の参拝について長年議論の的となってきた。(Wikipediaより引用)
公式サイトによれば、この「国家のために殉難した人」とは、戦争犯罪人として処刑された方々も含まれ、靖國神社に祀られている神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通しているそう。
戦犯合祀
靖国神社はB、C級戦犯だけでなく、A級戦犯も合祀している。これは単に「犯罪者を祀るのはおかしい!」というだけでなく、帝国主義的、軍国主義的イデオロギーを正当化し、その負の側面を強める可能性を大いに孕んでいる。
「他国の領土を支配して日本を強くすることのなにが悪いんじゃ!」的な。もちろんこんなことは戦争に勝つ立場であることを前提としているし、「勝利の正義」のもとにたっているので、それは「真の平和なんですか?」となる、うん。
実際、昭和天皇も明仁天皇も、この「平和の国」の矛盾のために参拝しなかった。
遊就館
靖国神社の敷地内には遊就館という、日本の戦争の歴史を展示する博物館のようなものがある。そしてこれが、戦争そのものを美化し、神格化する傾向があるという意見もある。
展示品は、「天皇と国家のために死ぬことがいかに尊いことか」を宣言するように作られてうて、軍国主義の害悪を認識することはできない、と学者は言っている。うん、たしかに。
実際、遊就館は一貫して、当時の日本兵士たちが、家族や個人の将来を犠牲にして国のために戦ったことを紹介し、それを崇高な生き方として描いていた。その時はクラシックな戦争の話としか認識しないかもしれない。でも、広島の原爆ドームとかとは違う。戦争の兵士を祀るなら、彼らがしたことについて、良い面も悪い面も両方語ることは不可欠。日本軍が行った残虐行為や性的虐待については、言及も説明もなかった。
宗教と政治の分離
最近で言えば、旧統一教会と国会議員がどうのとかでずっと問題になっている宗教と政治の関係。
多くの学者は、「首相の靖国神社への参拝は宗教と国家の分離にあからさまに違反している!」と主張している。
が、政府(自民党)の主張は、「靖国参拝は非宗教的かつ愛国的な市民儀礼です!」というもの。つまり、この参拝は仏教やキリスト教の儀式とは本質的に違うんだってさ。国家と天皇のための自己犠牲を理想とし、新しい日本人のアイデンティティを象徴する神道(国教)の戦没者を神格化するものだから。
なるほど、自民党はそういうスタンスなのね。
と思ったら、中曽根元首相は当時、訪問したときに、公的か私的かを明言しなかった。公的って言っちゃだめなんかい!どっちだよ
首相参拝のメリデメ
どっちだよ、と思うってことは多分首相みんな、正解がない問題に苦労していると思うので、歴代首相の参拝のメリットとデメリットを考える。
結論を言えば、国家にとってはメリットがデメリットを上回ると考えられる。
メリット
これは日本国内の日本人に向けて政府の「信頼性」を高めるのに役立つ。
1. 遺族に寄り添える
国家のために戦った戦争で家族を失った人たちにとって、政府が公式に靖国神社に参拝しない(あるいは内々に参拝する)ことは、裏切られたように感じるかもしれない。
2. 国防の強化に役立つ
敬意、名誉、感謝を示すことで、国防の強化が可能になる。愛国心が強まることで、国民がすすんで国のために自分の命を犠牲にするかもしれないということ。
デメリット
一方、マイナス面はほとんどが外交的な問題だ。
1. 韓国や中国との外交関係の悪化
実際、首相が靖国を参拝するたびに周辺国からの反発が強まっている。
2. 国際社会の一員として不適切とされる
これが個人的に一番興味深い。本当に。
靖国独特の神道的な形式は伝統を歪めるものであり、有害なナショナリズムを強化するものだからだ。
この「伝統」とは、故人を弔う際の伝統で、基本的に日本では神道と仏教の両側面をもって弔いが行われる。先祖を弔い、悪霊を鎮めるというのは仏教的な側面である。
しかし、靖国神社はこの仏教的側面を完全に排除し、守護神社として機能している。靖国のコンセプト上、神道以外の他宗教の形態を採用できないので、故日本兵を祀っているが、悪霊を鎮めるプロセスはない。
"仏教の教えでは、魂は冥土で転生するという「輪廻転生」の考え方を信仰しているのに対して、神道では故人の魂は家の守護神になると考えられています。"
じゃあその代わりに何が採用されているのか。解は戦時中のナショナリズムだ。つまり、伝統の一部であった仏教が、戦時中のナショナリズムによって書き換えられてしまったのである。故人を、戦争において国家に大きく寄与した人物として崇め奉る(わたしたちが靖国神社を参拝し、彼らの国家への献身に感謝を示す)ことで、死後安らかに眠りにつくということだ。
私が言いたいのは、神道批判でも仏教崇拝でも何でもない。
政府の最高権力者である首相が参拝するという事実は、有害なナショナリズムを復活させ、強化する。
さいごに
日本はいまだに歴史から排他的であるとみなされ、それが一種のナショナル・アイデンティティとして機能しているのだろう。
政府が靖国神社に参拝することで得られる利点は、大多数の日本人に向けられている。なぜなら、「ほとんどの」日本人は先祖が戦争体験者だからだ(私もその大多数の一人だと自覚している)。遊就館の偏った展示は、実際に私に日本人としての連帯感と誇りを感じさせ、民族的・文化的マイノリティという、カテゴリーに当てはまらない人々を思考から排除するものだった(日系人、在日韓国人、二世、沖縄人、アイヌ民族、諸外国からの技能実習生、精神および身体に障害がある人もこれに含まれる)。
そして、それが政府によって強化されていることは、日本がいまだに「日本人」のための国家であり、無意識のうちに他のマイノリティを国民の枠組みから排除していることを示唆している。
なぜ靖国神社がずっと気まずいのか、伝わったら嬉しい。
これを読んだら自分なりの解釈をコメントしてみてほしい。
そして、
靖国神社、是非行ってみてね😊
参考文献
https://www.jstor.org/stable/j.ctv1jpf1pk?turn_away=true